「人生、回り道ばかりで正しいルートは通っていなくて」

照れながらそう話すのは、一級建築士としてフリーランスで働く宮地綾希子(みやち・あきこ)さん。大学進学を機に地元茨城県ひたちなか市を離れ、神奈川県でハウスメーカーでの仕事を経た後に子育てを理由に茨城へと戻り、写真館や設計事務所、工務店と様々なキャリアを経験してきた。その後、常陸多賀市にあるシェアオフィス「晴耕雨読」の管理人をしていたが、2021年5月に独立し、空間デザインや仕上げを行う意匠建築を主に手掛けています。

宮地さんはどんな想いを持って働き、茨城をどのように捉えているのか。一般的な就職活動に違和感を抱く大学生ライターが「働き方の選択肢が増えてきた中で、正解がわからない」という悩みを打ち明けながら、宮地さんの信条を伺いました。

紆余曲折した、フリーランス建築士への道のり

―建築士の仕事に興味を持ったのはなぜですか?

小学生のころに住んでいたのが、父の会社のよくある社宅でした。同じ部屋を与えられている妹とは当時仲が悪く、そんな中で生活しなければいけないのが嫌でした。

「いつか絶対に大きな家に住んでやる」と思い、住宅のチラシを見て自分の住みたい家を想像したり、実際に設計図を書いたりして小学生のころに遊んでいたので、それがきっかけでしたね。

そのときには既に建築を仕事にしたいという想いを持っていました。

―建築を仕事にしたいという想いは、ずっと変わらずあったんですか?

ずっとあったのですが、そこまで強い思い入れではなく、将来の夢くらいのものでした。

高校2年生に上がるときに、文系と理系に分かれるタイミングがあったのですが、化学の先生に「お前は化学の成績が悪いから、絶対理系に来るんじゃない」と言われていました。建築は理系の仕事なので「文系しか選択肢のない自分は大学で建築を学ぶことは出来ない」と宣告されたようでした。結局そのときは素直に文系に行き、建築を一度は諦めました。

―「一度は」ということは、その後に再燃してきたのですか?

大学入試の模試に志望大学のコードを書く欄があって、コードの一覧表を見ていた際に、「武蔵野女子大学」(現 武蔵野大学)という名前の大学を偶然見つけたんです。そこに「住環境専攻」という数学ⅠA(文系数学)と英語教科入れる学科が新設されると書いてあるのを見て、諦めていた建築に行けるという可能性が突然現れ、想いが再燃してきました。

晴れて武蔵野大学にも入ることができ、建築の勉強もできました。

―実際に大学卒業後には建築のお仕事をされたのですか?

そうですね。卒業後すぐに神奈川県にあるハウスメーカーへ就職をしました。それでも結局やりたい設計が出来なくて2年程で辞めてしまって。
その後に写真館や設計事務所、工務店など色々なところで働いていく中で一級建築士の資格を取って、最終的にはフリーランスとして独立して働いています。

自分事のように考える想いの背景

―仕事をしていく中で、心がけていることは?

設計の仕事って、誰かの想いを形にするというか、その人の代わりに想いや夢を形にする仕事なのだと思っているんです。だからこそ、いかに想いを汲み取るか、いかにその人に憑依するかということを心がけています。本当に憑依するぐらいのレベルで色々な質問をして、想いを共有してもらっています。
だから仕事が終わって「はい、さよなら」というのは、したくないと思っています。

―憑依するほど知ろうとするスタンスは、なぜなのですか?

人って見てるだけじゃわからないからですね。人にはそれぞれの考えがあって、自分1人で考えることよりも本当に何十倍も何百倍も色々な考えがある。それを知るのが単純に面白いというのもありますね。

設計に例えて言うなら、キッチン一つとっても使い方は人それぞれで、それをどこまで汲み取れるかということは、どれだけその人になり切れるかだと思っています。

絶対に100%理解することはできないけれど、少しでも多く理解できるように憑依するほど知ろうとするし、観察をしています。

―「100%理解できない」とは思っているのですね。

「どうせ自分のことは誰も100%は理解してくれない」という話ってよく聞くじゃないですか。私自身もそう思っている節が今でもあって、だからこそそれを少しでも解決したいという想いがあるのかもしれないです。

―そのように考えるようになった原体験が何かあったのですか?

原体験があるのかはわからないですが、理解されないことっていっぱいあると思います。それを「なんでわかってくれないんだよ」と昔は思っていたけれど、最近はもう振り切れましたね。

わかってもらえなくて当然で、伝える側の人の努力もきっと足りてないんだなと思うこともあります。そういった思い違いで損をするのはすごくもったいないと思うので、それを少しでも減らしたいな、と。

―そのような思考の切り替えは、どうして起こったのですか?

実は一級建築士の試験を2回受けていて、1年目は学科の試験で1点足りなくて落ちてしまったんです。他の人より遅く試験勉強を始めたことやその年の合格率が低かったこと、試験の2週間前に祖母が亡くなって忙しかったことを理由に、そのときは自分なりにやり切ったと思っていました。

でも試験に落ちてしまったことを当時小学2年生だった娘に伝えたら、「また来年もママと遊べないの」と泣きながら言われたんです。自分としては努力をしてやり切ったつもりでも、「結果を出さなければ意味がない」「人を傷つけてしまうんだ」と思いました。それと同時に全然気づかずに娘を傷つけてしまっていた、娘の気持ちを全然理解していなかったんだと気づいたのがきっかけだと思います。

だからこそ2年目は藁にも縋る思いでした。模試で合格点に到達していても、それを信じずに勉強し続けていましたし、挙句には「受験前には何を食べたらいいのか」といったことまで調べていました。「やれることは何でもやろう」と。

他にも、自分の思いも寄らない考え方をする人が意外に多いと社会に出てから知って、私の持つ知識は本当にわずかなものなのだと感じることが結構あって。できる限り理解をして、寄り添いたいなと思っています。

―どうしてそんなに理解したいのですか?

お互いのためだと思うんです。せっかく時間をかけてお話しをしたり、仕事だったら打ち合わせをしたり、投資をして何かを作り上げていくのに、出来上がったものが思っていたものと違うのはものすごくもったいないこと。

元々私は効率を考えるタイプで、最適解を探す癖が昔からあったので、その一つなのかもしれないです。結果的に費やした時間やお金が無駄になるとか、思っていたレベルに達しなかったときの悔しさや悲しさが、嫌なんです。

茨城へ戻り、今も離れずに居る理由

―お仕事は県内と県外、どういう割合で受けていますか?

今のところエリアに関係なく、ベースにある想いから判断をして仕事を受けているので、正直わからないですね。この人と一緒に仕事をしたいとか、依頼してくれたことが嬉しいとか、そういう人からしか今のところはまだ声をかけてもらっていないのかな、幸運にも。

独立したばかりだから、お断りしているものはなくて。先月とかちょっと受けすぎてキャパオーバーしていたんですけど、大切な人たちが声をかけてくれたから、そこは妥協したくないと思っていました。

―どうして茨城に戻ったのですか?

ハウスメーカーに勤めていたときに子供ができて、育てていくのには実家のある茨城のほうが都合がいいという理由で戻ってきました。帰ってきた当時は茨城のことが特に好きじゃなかったです。夜は暗いし、車社会だし不便なことも多いと思っていたので。

ここ最近の話ですが、他県に拠点を置く会社に「うちの会社を手伝わないか」と声をかけられたことがあって、「2拠点居住なら考えるけど無理です」と断ったことがありました。その理由を聞かれたときにとっさに「茨城が好きだから」と答えました。

―結局茨城は好きなのですね。

よくよく考えたら、私はどこでも住めば都で、他県に住んだら住んだで好きになる自信はある。じゃあなぜ茨城でやっているのかと思ったときに、今関わってる人が好きだし、茨城にはまだ解決したい、解決できる課題が転がっている宝の山だと思っていることがあるのかなと。それを中途半端にしないで解決していきたいという想いがあるんですよね。

―例えば茨城にはどういう課題があると思いますか?

魅力が発信できていないとか、空き家がいっぱいあるとか、一般的には課題に見えるけど私にとっては魅力に見えるものがたくさんあると思います。捉え方を転換することで、魅力になるものがたくさんあると思っています。

「晴耕雨読」の運営を1年やってみて、地域の人には新しい変わった場所ができたと言われることがありましたが、実は特別新しいことをしていたわけではなくて。首都圏にある事例をいくつか組み合わせて、日立に持ってきてるだけなんです。都内だとレッドオーシャン(競争相手の多い既存市場)なのに、茨城の地方に持ってくることでそれがブルーオーシャン(競合相手のいない未開拓市場)になる。

茨城にはそういう余地がまだまだあるのではないでしょうか。

―じゃあ可能性だらけということ?

そうですね。他の地域では事例があるけど茨城ではやってないこととか、逆に茨城では普通なのに外に知られていないことが多いから、可能性がいっぱいあるなと思っています。

私がこれまでに培ってきた人との繋がりがあるからかもしれないですが、やっぱり住んでいる人のポテンシャルや想い、情熱っていうのかな。何かを始めるときに付いてきてくれる人や支援してくれる人が多いと思っています。

だから茨城はチャレンジしやすくて、失敗してもいいからチャレンジしたいと思うことが多いです。

地域活性化プロジェクトを通した、人との交流

―茨城では様々な地域活性化プロジェクトに参加されていますが、きっかけは何ですか?

Hitachifrogsのようなプロジェクトでいうと、代表をしている菅原さんから「こういうことを茨城で始めるんです、応援してください」って説明を受けたんです。そのときに「何これ、学生ばっかりずるい、私も応募したいです」と言ったら、「でも学生だけなんです」と言われてしまいました。

なので当時小学生だった私の子供が応募資格の中学生以上になるまでは活動が続いてほしいと思って、クラウドファンディングの支援をしだしました。初年度の報告会には子供と一緒に行って、客席で聞いてました。

実は、報告会に参加した前日に茨城県北ローカルベンチャースクールの受講生として自身のビジネスプレゼンを行っていたのですが、「本当に自分がやりたい事業がわからない」という迷いがあり、中途半端に最終プレゼンをしてしまいました。当日に間に合わせることを第一に考えて、ありあわせの情報を載せたとりあえずの資料を作ったので、達成感もなく、賞をとることももちろんなかったんです。

そんな中、「世の中を変えてやる」と本気で思っている学生たちの熱意のこもったプレゼンをLEAPDAYで聞いて、中途半端にプレゼンを終えてしまったことを後悔し、「負けていられない」と思い、ローカルベンチャースクールの講師だった方にその日に「私がプレゼン発表者の誰よりの先にしれっと実際に始めますから」と宣言して、半年後に晴耕雨読をオープンさせました。

※Hitachifrogs
1ヶ月間のグローバル研修を中心に、約半年間の高度な研修プログラムを実施するハイブリッドイノベーター型人財育成プログラム。「地域の持続的かつ発展的な経済自立の実現のために、世界と地域をつなぐグローカル志向の若手イノベーター人財を発掘・育成する」という理念のもと、2019年から民間主体でスタート。

※茨城県北ローカルベンチャースクール
茨城県の県北地域である日立市、常陸太田市、高萩市、北茨城市、常陸大宮市、大子町の「5市1町」を対象に、地域資源を活用したビジネスや地域の課題解決につながるビジネスの創出を支援し、地域活性化を目指すプロジェクト。

―Hitachifrogsは支援する側からだったんですね。

それが去年の8月ぐらいにいきなり「相談があります、ちょっと手伝ってください」と言われて、右も左もわからぬまま途中から、事務局としてサポートする側で参加するようになりましたね。

―仕事と地域プロジェクトとの切り分けは?

もう全部ごちゃ混ぜです。地域プロジェクトから仕事を依頼してくれる人もいれば、逆に仕事をきっかけに地域プロジェクトのほうの支援に回ってくれる人もいる。

―フリーランスにとって、地域コミュニティや地域のプロジェクトってどんなものだと思いますか?

出会いの場が多く、そこからお仕事をいただけたりとか、活動や人となりを知ってもらえたりすることがあり、ありがたいと思っています。でも仕事を取るためにそれをやっているわけではなく、地域プロジェクトに関わっている一番の理由は、何よりも自分が成長したいからです。それに付随して周りの人とたくさん知り合えるきっかけをもらえているイメージですね。

―コミュニケーションをとる上で気にかけていることは?

素のままです。建前とかできないから、ずっとこのまま。空気を読むとかやめました。逆に空気をぶち壊す人でいいと思ってます。

県北ローカルベンチャースクールといった県事業にも事務局として関わっているのですが、そこではやっぱり「ビジネスやるぞ」という熱量の人や、ちょっと闘争心が高めの人、内省していてすごい暗いタイミングにある人とか、様々な人がいるんです。その中になぜ私を事務局として入れたのかなと思ったときに、去年くらいから私は「ピエロの役割」かもしれないな、と。

場を和ますというか、その場の雰囲気を読んでおとなしくしようと考えるのはやめました。

―そのスタイルやコミュニケーションの取り方は幼少期からのもの?

全然違いますね。むしろ幼少期は本当に人前に出るのことが嫌でした。人見知りをするので、できれば目立ちたくなかったんです。これまでに離婚を経験したり、建築とは全然違う写真屋に勤めたりと「人生をまともに歩んできていない」自覚があって、それを別に隠す必要もないと思ったんですよね。

それで「今更どこに私はプライドを持てばいいんだろう」と思ったときには切り替わってました。かっこつける必要もないじゃないですか。

改めて「働く」とは何か

―企業への就職やフリーランスとして卒業後すぐに働く、会社を興すなど様々な選択肢があり、進路に迷っています。アドバイスをいただけますか。

個人的には全部やったらいいと思います。学生のうちに起業だってできる。今はインターンという方法もあるし、社会に出てからでもできることはあると思うので。人生回り道ばかりで正しいルートは通っていない私からしたら、今じゃなきゃ駄目とかここで決めないと人生の終わりっていうのは、現時点ではないと思っています。

今やりたいこととか興味があると思っていることは、まずは全部やってみてから判断すればいい。どれか1個に決めなきゃいけないということはないですよ。

―改めてお聞きしますが、宮地さんにとって働くこととは何ですか?

実はあまり働いてるという実感がなくて、どちらかというと「生きている」に近いですね。遊んでいることと働くことが全て同時というか、境界がないのかもしれないです。楽しむための一部みたいな。そうして考えてみると、私にとって働くことはコミュニケーションツールみたいな感じですかね。

※宮地さんへのインタビューはここまで


様々な仕事を経て、フリーランスとして歩み始めた宮地さん。

「周りの人に助けられているので、悔いの残るような妥協はしたくない」という言葉に、フリーランスとして働く上で大切にすべき「人との繋がり」や、それを保ち続けるために必要なことが込められているのではないかと感じました。進路を前にした大学生である僕自身も、どんな選択でも悔いが残らぬよう、できることをし続けていきたいと勇気をもらいました。

Writer Profile

藤川 尚

茨城大学人文社会科学部3年。1998年青森県青森市生まれ。2018年に茨城大学への入学を機に茨城県へ。青森へのUターンを考えながら、それまでに様々な経験を積み重ねてゆきたいと考えています。

Photo:佐野匠