茨城県常陸太田市で新たに生まれるワイナリー「武龍ワイナリー」では、事業を共に創り盛り上げていくスタッフを募集中。本記事では、武龍ワイナリーが生まれた背景と、そこに懸ける想いをお届けします。

山の自然豊かな茨城県北地域。その中の一つである常陸太田市は、関東でも有数の生食用ぶどう産地。市の南端に広がる中山間地域では、30を超える観光ぶどう園が営まれ、栽培面積、産出額共に県内1位を誇ります。

この地では、約50年の歴史で育まれた栽培技術で、巨峰を中心に、地域オリジナル品種「常陸青龍」などが作られてきました。生産されたぶどうは、ほとんどが地域内で販売、消費されるのだそう。旬になると、採れたてのぶどうを目当てに多くの観光客が訪れます。

しかし、就農者の高齢化と後継者不足により、地域での耕作放棄地、休耕地が増加。果樹産地の維持発展が課題となっています。

そんな常陸太田の街で、日本ワインを作るワイナリー「武龍ワイナリー」立ち上げに挑む山口景司(やまぐち・けいじ)さん。

※日本ワイン:日本国内で栽培されたぶどうを100%使用して日本国内で醸造されたワイン

山口さんは、生まれも育ちも常陸太田市。大正時代から続く酒の卸問屋の4代目として「合名会社山口」の代表として事業を続けてきました。

そして新たに、ワイン事業を継続させていくため、武龍ワイナリーの企画運営を担う「常陸コミュニティデザイン株式会社」を設立。現在、自社のヴィンヤードで、カベルネソーヴィニヨン、メルロー、ピノ・ノワールなどワイン用ぶどうの栽培収穫を続けています。

2022年初夏には、ワイン醸造所の開設を控えており、醸造設備が整えば、自社製のワイン用ぶどうを用いた日本ワインの製造が始まります。

山口さんが目指すのは、高品質な美味しいワインを作りながら、人・地域・文化・産業を繋ぎ、ずっと永く続いていく人の輪を育むこと。そして、100年続く事業として、地域とともに永続的に歩んでいくこと。

武龍ワイナリーでは、事業を共に盛り上げていくスタッフを募集中です。今回は、代表の山口さんと、社員の成田楓(なりた・かえで)さんにインタビュー。

まずは山口さんに、武龍ワイナリー設立への想いと、ともに働くスタッフに求める心構えについてお話を伺いました。

家業を通じて感じた、常陸太田の地域課題

―山口さんは、生まれも育ちも常陸太田だそうですね。

合併前の旧常陸太田市で生まれ育ちました。常陸太田市立の小中学校に通い、高校は茨城県立太田第一高等学校。私を含め、地元でしっかり学んで遊んで地元の進学校を卒業していった人たちは、「太田エリート」なんて呼ばれていますね。

私の実家は、常陸太田で古くから続く酒の卸問屋。大正時代ごろから事業が続いていて、私で4代目です。今では合名会社山口の代表として、地域に根差した事業を展開しています。

―生まれてからずっと地元で過ごしてきたのでしょうか?

大学進学のときは地元を離れ、卒業後は大手酒類メーカーに就職しました。配属先は宮城県。土地勘のある茨城県ではなく、宮城県に配属されたのは、家業が酒の卸問屋なので、私の仕事と実家の仕事とで競合関係が起きないようにするため、なんだそうです。

―大手酒類メーカーに就職したのは、何か意図があったのでしょうか?

私は山口家の長男に生まれたので、生まれたときから家業を継ぐのが決まっていたようなもの。なので、就職ではそのための勉強ができる場所を選びました。卸問屋ではなくメーカーに就職することで、お酒が造られお客様に届く流れの最上流工程からお酒の業界を見られる、というわけですね。

宮城県に配属されてからは、営業を中心に、飲食店の対応、スーパーマーケットのバイヤーとのやりとりなど、幅広い仕事を経験しました。さすが大手企業と言いますか、研修期間を含めて本当にしっかりと学ばせていただいて、新卒の私も社会人として一人前になれました。

その後、メーカーで4年ほど経験を積んだ後、地元にもどり、家業を引き受けるようになりました。

―地元に戻ってきた当時は、今のようなビジョンはあったのでしょうか

戻った当時はまだ、地域で何かやってみよう、という考えは無かったです。ですが、地域の人たちと一緒に仕事をするわけですし、まずは地域の商工団体に加入。地域の事業者同士の知り合いを作ったり、勉強したりする必要もありますしね。先輩たちにお世話になりながら、いろいろなことを教えてもらいました。

とはいえ、事業を続けながら危機感も持っていました。

街から人が出ていく一方だし、大手流通会社が地方に進出することで地元の卸問屋さんもつぶれていく。バブル景気以降に常陸太田から東京の大学に進学した若者たちは、そのまま都内に就職。地元には働く当てが無いから戻ってこない。すると地域の若手がいなくなるので、街に活気が無くなる。地域の商工団体の現役メンバーも減って、OB会ばかり増えていってしまう。

地域産業の一つであるぶどう農園も、担い手が減って耕作放棄地が目立つようになってきました。今でも、朽ち果てたビニールハウスや荒れ果てた圃場を目にします。街なかの子どもの数も減っていき、最近では夏祭りも開催しない雰囲気になってきているんですよね。「隣人無関心」みたいなことも、都会だけではなく田舎でも起こっていると思います。

街の活気が無くなるのも寂しいですし、人がいなくなると私たち酒類業界にも大きな影響があります。言い換えると、人の胃袋の数が少なくなれば、それだけお酒も食べ物も売れなくなってしまうわけですからね。

企画をやるなら、地域みんなで盛り上がりたい

―危機感を乗り越えていくために、何か取り組みを始めたのでしょうか?

企画を始めるにも、自社だけではなく、地域全体を盛り上げられたらいいなという想いはありました。

なので、地域を巻き込みながらイベント企画やビジネスネットワークの立ち上げ、地域特産品を使った商品プロデュースなどに取り組んでいきました。お酒だけではなく、地域商品を絡めていくことで、ビジネスの幅も広がりますしね。

地元の農家さんとメーカーさんを結びつけた商品開発を行ったときなどは、報道機関への連絡やお披露目会の企画運営も一手に引き受けていました。

正直なところ、私の持ち出しで企画を進めることも多かったです。でも、地域のみんなが儲けられるようにしたいし、いろいろな人を巻き込みながら展開していく方が楽しい。試行錯誤しながらも、いろいろなことに取り組んでいました。

―持ち出しになっても、企画づくりを続けてこられたのですね

やっぱり、企画を作って、参加してくれた人たちを引っ張って、プロジェクトを成功させる、みたいなことが好きなんですよね。

それに、面白い企画を思いつくと人に話したくなる。その企画が魅力的だと、話がどんどん発展していく。そんな広がりに面白さを感じます。

私が携わっている「卸問屋」という仕事は、何かを新たに生み出すというよりは、流通を支える仕事。なので、そこにとどまらず、企画を作りながら地域のなかにプラスアルファになるような新しいことを作ってきました。

2021年に収穫したブドウ

地域資源×卸問屋の知見×日本ワインブーム

―企画を続けていく中でワイン造りに出会ったのでしょうか?

いろいろな企画を続けてきて、もっと何かやってみたい、という気持ちが生まれたんです。そこで思い立ったのがものづくり。

酒の卸問屋は、流通の大きな流れの、真ん中にあります。下流に行くと飲み屋さんや実際にお酒を飲むお客様に近くなる。逆に上流に行くと、メーカーや醸造の現場にたどり着きます。

卸問屋業として積み重ねてきた経験や開拓してきた販路、いろいろな企画を実行してきた経験、かつてメーカーで業界を見てきた経験から、世の中にさまざまな仕事がある中で、「ものを作る」ということは、商売の本質に近いのではと思うようになりました。だからこそ、次はものづくりをしようと思ったんです。

―ものづくりの中でも、あえてワインを選んだのは?

やるなら、農業を基盤に、地域に根差したものをやりたいと思っていたんです。だから、常陸太田がぶどう作りに適した地域であることと、家業の中で培ってきたアルコール業界での経験値を掛け合わせて、ワインを作ろうと考えました。

ワインの味の9割を左右するのが、ぶどうの出来栄えだと言われています。だからこそ、地域の特性をワインの品質に活かせる。

日本ワインブームにも、上手く乗れるタイミングだったと思います。2000年ごろから流行りだした日本ワインは、2015年ごろになると作り手の知識や醸造技術もレベルが高くなり、世界からも注目されるようになってきました。

それに、生食用ぶどうの耕作放棄地を使ってワイン用ぶどうの栽培を始めれば、地域の景観も保たれます。50年前から続いてきたぶどうの里も、これからの世代にも繋いで行けますしね。

もちろん、生食用ぶどうを栽培する観光ぶどう園を立ち上げる、という道もありました。でも、コロナ禍による観光客の激減や、生食用ぶどうの販売単価低迷という状況下もあり、このまま観光ぶどう園「のみ」に頼った地域産業も限界があると思うんです。

地域産業、日本ワインブーム、自分の経験値、そして地域課題解決の可能性を掛け合わせ事業展開を決意したのが2016年。常陸太田でワイン用ぶどうの栽培とワイン造りを本格的に進めていくため、常陸コミュニティデザイン株式会社を設立しました。

地道に続けることで、新たな展開が生まれる

―どのようにワイン用ぶどう栽培をスタートさせたのでしょうか

実は、農業経験ゼロからぶどう栽培を始めたんです。最初は家庭菜園で試験的にぶどうを栽培していました。幸運にも栽培して2年目には出来の良いぶどうが収穫できたので、本格的に栽培を始めてみようと思い、農地を借りるところからスタートしました。

今思い返してみると、「自分にはぶどう作りの才能があるのかも!?」という勘違いからのスタートだったかもしれませんね。

最初に借りた土地は、20aほどの広さ。耕作放棄地になっていた元ぶどう農園で、いま建設中のワイナリーの前に広がっている場所です。


農地を借りた当初は、私は農業の素人。それでも土地のオーナーさんは、「草取りが大変だから使っていいよ」と貸してくれました。私がやっていけるか、あまり期待はしていなかったかもしれませんね。

最初は、栽培の用語もわからず苦労しました。そこで頼りになったのが、地域の先輩方。常陸太田はぶどう作りの歴史が長いだけあって、ぶどう作り名人の先輩方がたくさんいらっしゃいます。分からないことがあったら、先輩たちに何でも聞きに行きました。

先輩方は本当に色々なことを知っていて、地元のぶどう栽培技術の高さや歴史の深さを、改めて実感する機会でもありましたね。

同じ地域でぶどう栽培を続けていると、先輩方は同じ地域で農業をしているライバルでもあります。ですが、営業活動で培ったコミュニケーション能力を活かして、どんどん飛び込ませて頂きました。先輩方の懐の深さにも、本当に感謝しております。

―継続する中で変化はありましたか?

栽培を続けていくと、周りの人も見る目が変わってきました。次第に「うちの畑も使ってよ」と声もかけていただけるようになり、少しずつ作付面積を増加。今耕作している1.3haへと広がっていきました。定植したぶどうの苗も、約2,500本になります。

実は、常陸太田で昔から生食用のぶどう農園を営む農家さんでも、1haの面積を耕作していればかなりの広さ。その規模に近づいてきたころには、新参者な私も地域の先輩方から「真面目にやっているんだな」と認めてもらえるようになりました。

将来的には、圃場を3ha程度の規模まで広げていきたいと思っています。

―まだ醸造所は完成していませんが、収穫したぶどうの活用も行われているのでしょうか?

自社で収穫したぶどうは、県内のワイナリーさんに醸造を依頼して、ワインにしてもらっています。ワイナリーさんの技術も相まってワインの出来栄えはとても良く、テストマーケティングでもご好評をいただくことができました。ワインの味はぶどうの品質に由来する部分も多いので、自信につながりましたね。

将来的に自社での醸造が始まれば、また新たに試行錯誤の繰り返しになるはず。まずは、茨城を代表するワインを目指して行きたいと思います。

―事業を通じて、地域の中で新たな展開はありましたか?

地域の特別支援学校とご縁があり、協働でぶどうの苗を定植し収穫を目指すプロジェクトをスタートさせました。2019年4月には、生徒さんたちと一緒にマスカット・ベリーAの苗を、約100本定植。

先日は、生徒さんたちが植えたぶどうで、ぶどう100パーセントジュースを作り、支援学校の生徒さんたちにプレゼントしました。まだ武龍ワイナリーには製造用設備がないので外部のメーカーさんに製造をお願いしたのですが、地元で採れたぶどうの味を楽しんでもらうきっかけになったと思います。

生徒さんたちは、ワイングラスで味わってくれたり、わざわざ圃場までお礼を言いに来てくれたりと、ぶどうづくりをきっかけに、私たちとも親しみを持ってくれて嬉しい限りです。

―若い世代が地域に関心を持つきっかけになっていますね。

実は、2022年の2月には、このぶどうジュースを商品化して、地元の道の駅で販売する予定なんです。そのときは生徒さんにも店頭に立ってもらおうと計画中です。こういう経験をきっかけに、大人になってから「地元でワイン造りをやりたい」と興味を持ってくれたら嬉しいですね。

支援学校との協働企画は、2021年時点で3年目。農園の除草作業や収穫のほか、ぶどうの枝のボールペン、ぶどうで染めたコースター作りといったグッズ制作にも協力してもらっています。

いま、地域の子ども会やお祭りも無くなりつつあるので、企業が子どもたちと地域を結び付けていく役割を担っていく必要もあると思います。それも、一時的にではなく継続的に。

とはいっても、社会に対する取り組みは、ボランティアとして続けようとすると疲弊してしまいます。だからこそ、事業計画の中にしっかりと組み込みながら、支援学校や地域のみなさまと連携していきたいと思っています。

収穫ではたくさんの方にお手伝いに来てもらいました

人の輪を広げ、街に活気を生み出したい

―これからぶどう栽培やワイン造りを通して産み出していきたい展開はありますか?

武龍ワイナリーとしての事業も、自社内だけで品質と利益を追求するだけでなく、地域全体を盛り上げていきたい気持ちがあります。

武龍ワイナリーを運営する常陸コミュニティデザインの経営理念は、

「人をつなぐ仕組みを造り、地域や社会をより良いものにする」

「地域特産品を中心に地域の人々が集い、遠方から人々が訪れ、そこで作られた魅力ある商品や活動を通して人の輪を造っていく」

そして経営ビジョンは、

「ぶどう栽培を通して持続可能な農業の基盤を造り、地域の永続的な発展と活性化を促し、地域の人々を力づけ、双方の生活の質を高めていくことを目指す」

「地域のあらゆる人々が、地域において、自分らしい生活を実現し、維持していけるように地域生活に必要な資源を生み出していくことを支援していく」

スタートはぶどう栽培とワイン造りですが、そこから地域を巻き込んだ農業体験ツアーや民泊に繋げられるし、ワインが完成すれば、飲食店や地域商店、道の駅などとのコラボレーションもできます。茨城県北エリアの豊かな自然と食を巡るワインツーリズムも将来的には取り組んでいきたいです。

建設中の醸造所に隣接している古民家は、これから改装して、民泊やシェアオフィスとして活用できるようにするつもりです。

私たちの取り組みが成功事例となれば、ワイン用ぶどうづくりに興味を持ち、新規参入する方も増えるかもしれません。そうなれば、耕作放棄地や就農事業者減少の問題も、解決に向かうと思います。

ワインと人に向き合いながら、社風を確立していきたい

―ワインを作るだけでなく、人と地域を豊かにしていく取り組みですね。

美味しいワインを作ることはもちろんですが、ただ商品を作るだけでなく、作る過程や作った後の展開も含めて、地域に人を絡めながら街を元気にしていけるのではないでしょうか。

人の輪を作り、街に活気を生み出したい。事業を立ち上げたときに、法人名を「武龍ワイナリー」ではなく「常陸コミュニティデザイン」としたのも、そんな思いがあるからなんです。

これから展開していく中で、常陸太田市に生まれ育った若い方にも、何かのきっかけでこの街を知った人たちにも、地域に愛着を持ってもらいたいですね。ここに来てよかったな、また来たいな、と思っていただけるような地域にしていきたいです。

世の中にはいろいろな流行が生まれていますが、最後まで廃れずに残っていくのは「ものづくり」ではないかと思います。私は45歳でこの事業を立ち上げて、元気に働けるとしたらあと10年か20年ぐらい。それでも、100年先までずっと残っていけるような事業にしていきたいですね。

いま、常陸コミュニティデザインのメンバーは、私とスタッフの成田さんの二人。これからメンバーを増やし、まずは5年ぐらい時間をかけながら、社風や精神、企業イメージを一緒に作り上げたいと思っています。

―どんな人材と一緒に事業を育んでいきたいですか?

武龍ワイナリーは、小規模で立ち上がったばかりの事業。だからこそ、いろいろな仕事に幅広く取り組んでくれる人材が必要です。

事業の中では、ぶどうの栽培や収穫、農場整備はもちろん、ワインの醸造も行います。品質を高めるために研究や技術向上も必要ですし、販売のために卸問屋や飲食店とのやり取りも欠かせません。ECサイトでの販売も視野に入れています。WebサイトやSNSを活用した発信も、これからどんどん力を入れていく必要もありますね。また、農業体験や民泊の企画運営も行います。

とくに営業する際は、作り手である私たちが、私たちの言葉で丁寧に説明してお客様に届けていきたいです。飲食店にお届けする際はもちろん、メーカーズディナーを開催するときは、シェフやソムリエと一緒になって、どうしたら武龍ワイナリーのワインを一番美味しく味わっていただけるか、当事者として一緒に考えていく。それぐらい、広く深くワインと人に向き合っていきたい。

※メーカーズディナー:ワインの作り手やワイナリーのマーケティング担当者に説明をうけながら、食事とワインを楽しむイベント。一般消費者向けの開催と、報道機関向けの開催とがある。食事の際は、ぶどうの品種や醸造の工夫だけではなく、ぶどう畑の状況、その年の天候なども語られる。

「農作業だけやる」「営業だけやる」というのではなく、コミュニケーションをとりながら、好奇心旺盛にいろいろな仕事に取り組めるような人と一緒に仕事をしていきたいですね。

ワイン造りに向き合ってきた人たちが、お店や消費者に向き合ってワインを届ける。それが武龍ワイナリーの価値になっていくと思います。

代表の山口さんに続きお話を伺ったのは、社員の成田さん。

成田さんは、茨城県立農業大学校を卒業し、2021年4月に入社したばかり。ワイン造りを通じて地域を担っていく若手に、武龍ワイナリーでの仕事について話を伺いました。

みんなで美味しいワインを育み、何度も足を運んでもらえる場所にしたい

―成田さんは、武龍ワイナリーでどんなお仕事をされていますか?

いまは、栽培を中心に担当しています。苗の定植から畑の管理、収穫まで一連の流れを引き受けながら、品質管理を行っています。また、作業の合間を見ながら圃場や作業の様子を撮影し、SNSでの発信も行っています。

―高校、大学校を通じて農業を学んできたんですね

はい。高校時代は、水戸農業高校の農業科で学んでいました。高校では野菜・草花・果樹のなかからクラスを選べて、私は果樹を専攻していました。その時は、「収穫してすぐ食べられるし美味しいから果物がいいな」ぐらいの軽い気持ちで選んだんですけどね。農業高校卒業後は茨城県立農業大学校に進学し、ここでも農業部農学科で果樹コースを専攻しました。

―当時は、卒業したらどんな仕事をしようと思っていたのでしょうか

農業の道に進んだばかりのころは、組合など農業分野の安定した職場を希望していたのですが、高校と大学校の授業を通じて、作物の栽培のような現場の仕事に惹かれるようになりました。実習では、作物を作るだけでなく、収穫してお客様の手に届けるところまで経験。そんな一連の流れに関われるのが楽しかったですね。

ワインぶどうづくりに出会ったのは、大学校の郊外農業短期研修で、武龍ワイナリーのヴィンヤードで山口さんにお世話になったのがきっかけです。

作業の傍ら、ワイナリー設立の話や、生食用ぶどうとワイン用ぶどうの違いの話なども聞かせていただきました。それに、山口さん一人で広大なヴィンヤードの管理と卸問屋とを両立していることを知ったときは本当に驚きで、山口さんの事業にかける強い思いを感じ、一緒に仕事をしたいと思いました。

研修に来ていた当時はまだ未成年でお酒は飲めなかったので、「ワインは大人の飲み物」ぐらいの印象にとどまっていたんですよね。でも、ずっと果樹を専攻してきたので、その知識と経験を活かせる職場に就きたいと思っていました。

―武龍ワイナリーで働いてみていかがですか?

山口さんが言うように、ヴィンヤードの管理やぶどうの収穫栽培以外にも仕事は多く大変ですが、いろいろな経験ができて楽しいです。

先日は、県内のワイナリーに、1週間泊まり込みで修行に行ってきました。ワインの醸造について学ばせていただいたのですが、横文字や専門用語が多くて、ついていくのも精一杯。でも、修行を終えてもどってきてみると、近所の農家さんからワインについて聞かれたときにスラスラと答えられるようになっていて、自分の成長を実感しました。

仕事の楽しさの一つは、ボランティアの方々がぶどう収穫のお手伝いに来てくださったとき。初対面の方や、自分よりずっと上の世代の方も多いですが、仕事をしながらちょっとした会話が生まれていくのが楽しいですね。

ときどき農業大学校時代の友達も手伝いに来てくれて、同世代同士の話にも花が咲きますね。友達のうちの一人は、常陸太田のチーズ工房で働いていてるんです。私たちも早くワイン造りをはじめて、友達が作ったチーズに合うワインも作れたら面白いですよね。

―これからどんなワイナリーにしていきたいですか?

長くワインに親しんできた大人の世代の方にも来ていただきたいですが、私と同年代の世代にもぜひ来ていただきたいですね。これからさらに良いぶどうをつくり、美味しいワインを作っていきます。

この街に、いろいろな場所からいろいろな人がやってきて、みんなで美味しいワインを作っていく。そんなワイナリーがあることを知ってもらいたいですし、何度も足を運んでもらえるような場所にしていきたいですね。

※山口さん、成田さんへのインタビューはここまで


常陸コミュニティデザイン株式会社(武龍ワイナリーを運営)
Webサイト

Hitachi Vineyard(ワイン用ぶどうを栽培しているぶどう園)
Facebookページ

本記事の募集は終了しました。

Writer Profile

佐野 匠

1985年茨城県下妻市生まれ。20代半ばに東京から地元に戻るも、キャリアもスキルも学歴も無かったため、悩んだ末にボランティア活動に参加し、その中で写真、文章、デザイン、企画、イベント運営などのノウハウや経験値を蓄積。最近やっとライターやフォトグラファーの仕事を頂けるようになりました。カッコいいと思うものは、マグナム・フォトとナショナルジオグラフィック。

Photo:鈴木 潤(一部提供写真を除く)