これまで、茨城移住計画・ヒタチモン大學・まぜるなキケン・時由地材JIYUDIZAI・常陸フロッグスなど、様々なプロジェクトを企画運営してきた菅原広豊さん。菅原さんは、これまで茨城県の会社に勤めながらもこれらのプロジェクトの中で企画運営のコアを担ってきました。
企画やコーディネートの力、フットワーク軽さ、そして多種多様な人との繋がりを持つ菅原さんと話す人は、「フリーランスの方かな?」と思うことも多かったのではないでしょうか。
そんな菅原さんが、2020年4月から、名実ともにフリーランスとして独立。人財育成や移住定住を中心とした事業を展開していきます。
これまで大きな企業の中に身を置いていた菅原さんに、フリーランスになろうと決意させたきっかけ、そして現在掲げているビジョンについて伺いました。
ーこの度、フリーランスとして独立された菅原さん。現在どんなお仕事を中心に進めていますか?
一つは「茨城移住計画」という、茨城県への移住関係の仕事で、企画運営やコーディネーターとして動いています。もう一つは、常陸フロッグスの運営。
茨城移住計画は、人と人、都内と茨城を繋げるためのイベントや、関係人口を繋げるためのコンテンツを提供して、人の想いとニーズを結びつけるプラットフォーム。いきなり茨城県に「移住してください」とは言えないので、まずは茨城に興味がある人の想いをつないでいく部分を僕たちが作っていきます。
会社勤めしていたころは、複業のような形で関わっていたんです。茨城移住計画は2017年に僕が代表として立ち上げていて、実質的な動きは、立ち上げメンバーであるすーさん(鈴木高祥さん)に任せっぱなしだったんですよね。とくに去年は、僕が「常陸フロッグスに重点置きます」と宣言していたので、茨城移住計画には1~2%ぐらいしか関わっていなかったです。
ただ、常陸フロッグスで活動しつつも、「茨城の中で土着し地域に馴染んでいく部分を作りつつも、県外と繋がっていく部分も必要だ」という僕なりの答えがあったので、今年は茨城県の外と中を融合させる動きを茨城移住計画の中でやりたいな、と思っています。
なので、これからはほぼ専業として茨城移住計画として動きますね。今まで繋いでいただいたご縁を大切にしつつ、「茨城移住計画2.0」みたいな感じで、設立メンバーのすーさん、テツさん(鈴木哲也さん)と議論しているところです。今、新型コロナウイルスのこともあるので、そもそもの「移住」という概念がそのまま残るかどうか、残ったとしてどんな形の「移住」なのか、ということを考えつつ、県の事業とは別に民間主導型の自立したサービスを作っていく準備をしています。
ーもう一つの仕事「常陸フロッグス」とは?
常陸フロッグスは、10日間の米国シリコンバレー派遣を中心に、約半年間の高度な研修プログラムを実施するハイブリッドイノベーター型人財育成プログラム。沖縄の「琉球フロッグス」がスタートした取り組みが中心となっていて、沖縄以外にも地域の教育プラットフォームを作っていきます。琉球、常陸ときて、北海道や高知県でも設立される予定ですね。
「中学生から大学生をターゲットにハイブリッドイノベーター型人財を育成します」としていますが、裏のメッセージとして持っているのが「ソーシャルインパクト」。常陸フロッグスとしての取り組みや、そこに参加した子どもたちの成長を見た大人たちが、どう変化して、その地域全体の力が大きくなり教育レベルが上がっていく、というところ。
常陸フロッグスは、教育を通じて地域を繋げ活性化するプラットフォームだと思っています。このプラットフォームを通じて、地域人財の底上げをする。
常陸フロッグスには、日立市で「ただいまコーヒー」を経営している和田さんから「メンターとして参加しませんか」と誘われたことがきっかけで参加しました。
そして2019年に、メンター兼運営みたいな立ち位置でフロッグスに参加。事務局みたいな部分も担当していましたね。今年は、引き続きメンターをやりつつも、オーガナイザーという役割で、全体のまとめ役、実行委員長という立ち位置で関わっていきます。総合演出というか、すべての運営を任されています。
常陸フロッグスは、「琉球フロッグス」とのライセンス契約や協力のもとに運営されているんですね。研修プログラムの内容や学生とのメンタリングスキルなども、琉球フロッグスから協力を頂いているところです。これから数年かけて僕と和田さんで自走して運営できるように、少しずつ引き継いでいっているところ。コロナの影響もあって、プランBプランCと選択肢を作りつつプロジェクトを進めています。
ー子どもたち成長を見た大人たちにも影響を与える、というのが興味深いですね
この前、「LEAPDAY」という、起業家や経営幹部の方々を招いての豪華なトークセッションやプログラムに参加したフロッグス生の集大成となるサービスプレゼンがあるイベントを開催したんですよ。
そのときは親御さんをはじめ大人の方々や、子どもたちも、フロッグス生の発表を聞きに来てくれました。だいたい100人ぐらいでしたね。そこで、発表会が始まる前と後とで、大人たちの表情の変化が絶妙でした。最初はみんなニコニコしながら「お久しぶりですね」って挨拶を交わしていたのに、発表が終わってからは「本当にこれでよかったのか、自分たちももっとできることがあるのでは」と自問自答するような表情が生まれていました。会場に来てくださった100人それぞれの中に問いが生まれたんだな、と感じましたね。
ここでの発表って、英語で5分間のプレゼンなんです。発表を聞いていた子どもの中には、その様子を見て英語の勉強をし始める子もいたそうです。それに発表会が終了したときも、発表した子どもの親御さんたちから「これからは、大人が変わらないといけないと思いました」という話を伺いました。
ー菅原さんが独立しようと思ったきっかけは?
複合的に理由はあるのですが、結果から言うと、和田さんからお誘いを受けて常陸フロッグスのメンターになり、そこで色々な体験をした中で2019年の11月に独立を決意しました。
なぜかというと、常陸フロッグスの卒業生の中で、17歳の高校生で起業した人がいたのですが、彼の起業に向けた動きを目の当たりにしたことが大きかったです。彼が独立したのは2019年の9月末。自分がやりたいことを、いきなり掴みに行ったんですよね。大人は、何かを掴もうとするときに、10行程ぐらいのステップを踏んだり、リスクを考えて足踏みしてしまう。もちろんリスクを回避することは重要ですけど、言い訳になっていて結局掴みに行かないことも多い。
でも彼は、いきなり掴みたいものを掴んだ。それを見たときに、「だったら僕も、掴みたいんだったら掴めばいいじゃん」と気づいたんです。その時すぐに、すーさんにすぐ相談しに行って「来年度、茨城移住計画の仕事にしっかり参加するので、僕のお金準備してください」「来年度は、僕がジョインするのでその前提で仕事の建付けを作ってください」という独立後の仕事の打合せもしました。
もう一つ言うと、常陸フロッグスのプログラムの一環でシリコンバレーに行って、講師の方からお話を伺ったときの僕なりの気づきも、きっかけにつながっていますね。
シリコンバレーは、IT企業がたくさんあって「最先端技術の話が聞ける」という感じがするじゃないですか。でも、現地の講師たちが常陸フロッグスの学生さんに共通して話していたのは、テクノロジーのことではなく、「思いやりや情熱の大切さ」「関わり合う人全員と喜びを分かち合える空間をいかに作るか」といったことを徹底して考えるということ。
フロッグス生たちもこの考え方を感じ取ってくれたと思いますし、僕にとっても大きな気づきでした。世の中を作っているのは、今は学生ではなくて大人。でもシリコンバレーに行ってみて、日本を客観的に見たときに「今の社会構造を悪くしているのは、大人なのでは」と思ったんです。だからこそ、子どもたちに思いやりを持たせられる大人が増えないと、今の子どもたちが大人になったときに良い社会を作れない、と思ったんです。
ー決意から退職、独立までの期間は短かったと思いますが、当時勤めていた会社との調整はスムーズでしたか?
僕としては、自分がやりたいことをすぐに掴みに行きたかったのですが、2019年11月に独立の旨を上司に伝えたところ、すぐには辞めさせていただけず。
ありがたいことに、会社から社内起業のご提案をいただいたり、「菅原という部署を作って社内リソース使って、茨城移住計画や常陸フロッグスをやってみないか」というご提案までいただいて。結局、「辞めることを決断する前に、まずはプレゼンしてみてほしい」というご提案もいただき、会社の役員や部長に対して、僕がやりたいことについてプレゼンすることになりました。
準備してやっと2020年の1月下旬にプレゼンをさせていただきました。でもプレゼンを終えてから、「このまま会社に残ることはちょっと違うかな」と思ったんですね。
会社に残ったとして、社内に僕がやりたいことを理解してくれる人や味方がいるとは限らない。いたとしても、一緒にやっていけるように育てるのに3年はかかる。その3年間は、金銭的には安定するけど、やっぱり時間がもったいないし、そもそも本当にやりたいことをやれる環境じゃない。
それに、常陸フロッグス生の起業を見て「やりたいことはすぐに掴みに行くべき」と思って独立を決意したわけですからね。なので、プレゼンの翌日、上司に「ちょっと違うと思いました、自分のやりたい道を進みます」という話をして、やっと承認を頂いて、2020年の3月いっぱいで会社を辞めました。
ー「ちょっと違う」というのは、プレゼンを聞いた役員と上司の反応を見て感じたことですか?
そうです。実は、「このプレゼンに相手はどんな反応をするか」ということも調べたかったんです。実際にプレゼンしたときは、聞いてくださった皆様からは「いいね」っていう反応を頂いたんです。でも僕は、感想を求められてから「いいね」と言うまでの0コンマ数秒の中に発生した「間」の中に、「予想より高次元で理解できないけど、取り組みはすごいから、菅原のことを会社として上手く利用できないかな」みたいな真意を感じ取ってしまったんです。
その直感は当たってて、後になって上司に「あのプレゼン、実際どうだったんですか」と聞いてみたら、「上手いこと使ってやろうと思ったんだよね、ほんとは」とおっしゃってました。バレバレだったんですけどね。
ー独立に向けて不安はありませんでしたか?
独立すると決めてからもいろいろ考えることが多くて、その分不安も考える回数多かったです。だから、ネガティブに考えて言い訳ばっかり並べてしまったこともありました。
そういう時は、まずは退路を断ったり、戻れる場所を無くしたりしながら考えました。「後ろ振り向いたら橋が無くなっていました」みたいな。
ただ、それだけじゃなくて、自分なりに心と体が「行け!」と言っている瞬間が僕の人生の中には何回かあって、その瞬間に走り出すとある程度うまく行くんですね。今回は自分の中でGOサインが出ていたので、退路を断って、進みながら考えていきました。
最近だと「サラリーマンで複業やるのはカッコいい」みたいな流れもありますが、僕にとっては「やりたいこと」ではなかったですし。でも、もしも理念を共有できる会社や組織から誘っていただけたら、そちらに行くということもあるかもしれませんね。フリーランスも起業も会社への所属も、ほんと全部手段だなと思いますし。
ー菅原さんが抱く「掴みに行きたいもの」とは?
今の段階だと、10年後の2030年に思い描いている世界が「自分の才能や潜在能力や強みをすべての人に発揮できるようにしたい」ということ。そして僕自身も、自己成長させながら自分の中にあるOSをアップデート指せ続けているつもりです。
実は、大学生ごろまでの僕って、今から比べると別人なんですよ。今でこそインタビューがあったり、人前で話すことはありますけど、当時は全然話さなかったんです。この前、大学のラグビーの監督に挨拶しに行ったら、「お前の声、現役のころは聞いたこと無かった」って言われて。
日々インプットはたくさん入ってくるのですが、それをきちんと伝えることや、相手に理解してもらえるようにする、ということがすごく苦手だったんですよね。でも最初の就職のときに、それにきちんと取り組まないといけない、と強く思いました。
ちょうどそのころ、就職活動の中で「一番やりたいこと」「一番やりたくないこと」をエントリーシートに書き出すことがあったんです。やりたいことはいっぱいあったんですけど、それは人と話さずに済むことばかり。でも、エントリーシートを書きながら、「やりたくないこと」である「人と話したり伝えたりすること」を無くすことができたら、その後の人生が楽しくなるな、と思って営業職を選択しました。
結果的に営業職に就くことができましたが、刺激が強すぎて心が折れてしまいましたね。とはいえ、喋れるようになりましたし、イベントに登壇したりすることも増えました。ちなみに、全く話さない昔の僕を知っている人が見ると、引くらしいですね。親も引いてます。
最初に就職した22歳から36歳までの14年間で「人は変われるのか」という実験を、自分を実験台に行っていたんですね。結論は、「どんな人でも変われる」ということ。そして、「僕が変われるんだったら、みんな変われるんじゃないか」と思ったんです。
僕自身のそんな経験があって、そして出会った琉球フロッグスや常陸フロッグスは、子どもたちの育った環境や原体験に関係なく自分のエネルギーの使い方を学べる場所。それを見て、「どんな環境にいる人たちでも、自分の才能や強みを発揮できる環境づくりをやりたい」と思ったんです。
だから、僕が掴みに行きたいこと、2030年までにやりたいことは、自分の才能や潜在能力や強みをすべての人に発揮できるようにしたい、ということなんです。
ー自分の才能や潜在能力や強みをすべての人に発揮できるようにしたい、ということを目指す菅原さんの役割は?
僕が何か特定の肩書を持っている、というよりも、頼まれることがそれぞれ違うので、それに合わせて僕が適応しているだけですね。「自分は何屋さんだからこういう仕事を引き受けます」というより、相手から「こういうことできますよね?」という相談をいただいて、それに合わせて引き受けているような感じです。
一番相談が多いのは、人のコーディネートですね。たとえば、ある企画を立てるときに、「この条件とターゲット層、この場所でこういう条件でやります」というときに、その企画に携わる人やゲストさんなど、最大公約数をとれる人選をしていく、という感覚で仕事をしています。だから、人事面談のアウトソーシング、社員向けのパーソナルコーチング、壁打ちといった役割を引き受けるのが9割ぐらいですね。
僕が得意なのは、学問でで言えばマーケティングなので、茨城移住計画の中では「BtoCのダイレクトマーケティングのなかで的確なプロモーションができるのか」ということを考えたりしますし、一方で常陸フロッグスではメンターとしての役割を果たす。いまやっている仕事の中では、それぞれに僕の中の人格や特技を使い分けつつ進めている感じですね。
ー菅原さんは、相談したときに、話をしっかりと飲み込んでくれる安心感もありますね。
色々相談受けることもありますけど、基本的にはやるかやらないかの話なので、「まずはやってみたら」と声をかけたりします。「誰かのためにやりたい、挑戦したい」っていう人のことはめちゃめちゃ応援しますし、でも一方で「賞賛を得たいだけ」「利己的」な感じの人にはちょっと冷たくなるかもしれませんね。
ー2020年4月に独立されて、これから数か月から1年の中で取り組もうとしていることはありますか?
今から数か月後だったら、色んなプロジェクトをいかにプロモーションするか、ということになってきます。1年後ぐらいをを目標とすると「茨城県内に大きな引力を作る」ということが目標ですね。
僕が茨城県の助けたい人がいるエリアに土着していって、地域の人たちがより良くなるサービスやコンテンツを作りたいです。それが何か、と言われたら、まだミッションとしては茨城移住計画と常陸フロッグスしかないので、その二つに取組みつつも、結果的に何か生まれていれば良いなと思います。
ー「引力」の部分をもう少し詳しく教えていただけますか?
茨城移住計画は今年で3年目なんですけど、始めた当初は「茨城とその外郭の都市やコミュニティを繋いでいったら、茨城に新しい循環が生まれて、面白いことができるんじゃないか」という仮説を持ってスタートさせたんです。
結果的にその仮説は、半分合っていて半分間違いだったんです。
「合っていた」というのは、県内で県外の人を巻き込んだいろいろなプロジェクトチームができていたということ。これはすごく良いと思います。でも予想とはずれた部分は、例え県内で色々なプロジェクトチームができていたとしても、事業やプロジェクトがしっかりと運営されている状態になっていないから、外から茨城にやってきてくれた人に対する受け皿が無くて、その人たちが茨城に定着できないということ。
例えば「いばしごと」は、外から来た人と茨城県内の人とのミスマッチを埋める手段の一つだと思うんですよね。それと同じような形で、僕やその周りの人たちの価値観の集積したものを作ったり、プロジェクトを作る人それぞれの想いの種を撒き続けたりしないと、県外から茨城に興味を持って人が来てくれたところで何も生まれない。
だから、茨城移住計画の三人だったら、テツさんとすーさんに茨城の外郭で活動してもらっています。テツさんは全国のプレーヤー、すーさんは関東圏域のプレーヤー、そして僕は茨城に土着する、といった役割で進めて、城県内への引力を作っているところです。
ーもっと長いスパンで考えたときのビジョンは?
さっきも少し話しましたが、人の才能とか強みを開発する、見つけるお手伝いをしたいですね。まだ自分のエネルギーを上手く使えないでいる人たちも多いと思うので、そんな人たちをサポートできるようにしていきたいです。
これから僕自身が取り組んでいくのに、夢や志も大事なんですけど、まずは今この瞬間にどのようにエネルギーを使って集中できるか、ということの方が僕は大事だと思っています。遠くのゴール地点も大事なんだけど、「今これが好きだから」って集中できることも大切だと思うんですよね。
自分にとって集中できるものは何か、集中できる好きなものは何か、と自分で認識していることは大切で、みんながそうなれるようなサポートをしながら、より良い地域社会を作るお手伝いができたらなと思っています。
言い直すと、「人の潜在能力や強みを引き出すお手伝い」が僕のミッション。そこだけは、これからどの選択をしたとしても変わらない、生涯を通じてやっていくことだと思います。
僕がいまリスペクトしているのは、さかなクンなんです。さかなクンって、魚がすごく大好きで、好きなことを徹底的に探究している。そうやって集中している人の周りには、必ず人の輪ができるんです。好きなことに集中していることで、魅力が引き出されて、その人の周りに人の渦ができる。さかなクンは、好きなことの研究を突き詰めていった結果、今のようになっていったと思うんです。僕はそういう人達を魅力的だと感じるし、輝いていると思う。だから、そういう人達を増やしたり、仲間を見つけていきたいですね。
ー菅原さんだからこそ、人の能力を引き出す役割を担えるのかもしれないですね。
僕は誰かと会った時に、無意識に「この人の才能や強みってなんだろう」って考えちゃうんですよ。ずっとそればかり考えている。先日も、オンライン飲み会やっていたんですけど、飲み会の最後に僕が「それぞれの強みだと思ったところ」を伝えて去っていく、みたいなことをしていました。
僕が川嶋啓太さんと一緒に企画している「まぜるな危険」という招待制の交流イベントがあるんですけど、それは僕らが「この人とこの人が集まったら面白いことが起こりそう」という相性やキャラクターを考えながら招待する人の人選をしているんですね。川嶋さんはもちろん僕も、そういう特性や強み、相性みたいなことを考えていくことに長けているのかもしれないですね。
ーwith COVID-19、after COVID-19で社会、特に地方ははどのように変化すると思いますか?
「アフターコロナ」で考えると、もしかしたら、みんな実家に帰っちゃうかもしれないですね。会社にいなくても仕事ができるんなら、東京にいる意味ってなんだ?となってくるから、実家にいながら働く方や、親と同居はしないけど実家の近くに住むという方が増える。だから、ある時期に人の移動が急激に増えるタイミングがあるのかなと思います。
地方って移動による時間の損出が多いんですよね。自分で車を運転している間は何もできないですけど、東京では電車の移動中にメールを打ったりインプットしたりすることができます。でも今は、地方でオンライン会議を使いながら仕事をしていて、移動せずに済んでいる状態。
地方で「移動による時間の損出」が無くなるのは良いなと思いますし、都内でやっていたような仕事を、テレワーク技術を使って地方にいても実施可能にしていくと、地方によくある「〇〇支店」みたいなものも無くなってくるかもしれないですね。現に、ライフネット生命保険のような保険外交員のいない保険会社もすでにあるわけですし。
あと、「社内にいながら営業する」という営業スタイルも増えてきているそうですね。外に出る社員が名刺を集めてきて、あとは社内のプレゼン得意な人に託して、オンラインでプレゼンする。そういうスタイルも今後増えていくんじゃないかと思いました。
「ウィズコロナ」でいうと、来年の今頃も今のような状態だと思っていますし、普通のインフルエンザよりも長いスパンで流行が続きそうですよね。だから、ウィズコロナの間は、オンラインが発達する。ITリテラシーも上がってくるでしょうし、ワークショップの形も変わってきますよね。
でも、実際オンラインでビデオ通話だけやっていると疲れてしまいますね。目と耳やジェスチャーを使ってコミュニケーションできるんですけど、カメラから目をそらしてしまう感じがちょっと気になってしまいますし。これからは、逆に電話や音声通話が普及するかもしれないですね。いかに音声通話音環境をよくするかとか、耳ケアをどうするかとか。
今年の常陸フロッグスも、全回リモートで開催します。まだコロナ騒動がどうなるかは分からないんですけど、まずは実際にやってみて、「何が大事だったかは、一年後に検証しよう」という話になっています。
アフターコロナについては何となくイメージつくのですが、ウィズコロナはこれからどうなっていくか正直分からないです。だからまずは、実験しながら考えてみる。
もしかしたら一人遊びのプロが増えるかもしれませんね。僕は謎のスキルがアップしてしまいました。土鍋で米を炊いてるんですけど、米の銘柄によって水の量を1%単位で調整して美味しく炊き上げるスキル。土鍋マイスターの資格が作れるかもしれませんね。
Writer Profile
佐野 匠
1985年茨城県下妻市生まれ。20代半ばに東京から地元に戻るも、キャリアもスキルも学歴も無かったため、悩んだ末にボランティア活動に参加し、その中で写真、文章、デザイン、企画、イベント運営などのノウハウや経験値を蓄積。最近やっとライターやフォトグラファーの仕事を頂けるようになりました。カッコいいと思うものは、マグナム・フォトとナショナルジオグラフィック。